朝、まだ陽が昇りきらないうちに、ケンタと父はディズニーランドのゲート前に立っていた。ケンタは小学5年生になったばかりで、友達と遊ぶほうが楽しくなってきていたが、今日は特別な日だった。ちょうど一年前、母が病気で亡くなってから、父が計画した初めての家族旅行。いや、今はもう二人家族だ。それでも、「この日を楽しみにしていたんだ」と言いながら前夜から何度も確認していた父の顔を思い出すと、ケンタは少し胸があたたかくなった。
パークの門が開くと同時に、父はケンタの手をしっかりと握り、いつもよりほんの少し明るい声で言った。「今日は思いっきり楽しもうな!」ケンタは恥ずかしい気持ちを抑え、ぎこちなく笑ってうなずく。ゲートをくぐると、カラフルなフラッグが風に揺れ、華やかな音楽が耳に飛び込んできた。前回来たときは母も一緒だった。あの日、母はキャラメルポップコーンを手渡しながら「ふたりとも、ちゃんと笑って!」とカメラを構えていたっけ。あの写真は今、家のリビングに飾ってある。
父はマップを見ながら、「ケンタ、最初はどこに行く?」と聞く。ケンタは少し考えてから「…スペース・マウンテンに乗りたい」と答えた。父は高所や暗いところが苦手だったはずだが、「おお!行こう行こう!」と、まるで怖さをかき消すような明るい調子で返す。その横顔を盗み見ると、少し緊張しているのがわかった。けれど、父は何も言わないまま、ケンタよりも早い足取りで列へ並んだ。
絶叫マシンを乗り終えると、ケンタは自分よりも父が息を切らしているのに気づく。父は目を丸くして、「いやあ、思ったよりすごかったな!」と照れ笑いを浮かべる。その顔を見ているうち、ケンタは胸の奥にちくりとした感覚を覚えた。父はもともとインドア派で、こういう激しい乗り物は好きじゃなかったはずだ。それでも、ケンタを喜ばせようと頑張っているんだ。昔、母が言っていた。「お父さんは不器用だけど、ケンタが笑うとすごく嬉しいんだって。」その言葉が急に思い出され、ケンタはあらためて父の存在を考える。
昼過ぎ、メインストリートで行われるパレードを待ちながら、父とケンタはベンチに腰かけていた。父はポップコーンをケンタの前に差し出す。甘いキャラメルの香りが鼻をくすぐる。「あの時、母さんが買ってくれた味だ。」ケンタがポツリと言うと、父は少し首を傾げ、「そうだなあ…あの時は3人だったな」と遠くを見つめるように微笑んだ。
パレードが始まると、きらびやかなフロートやディズニーの仲間たちが次々と現れ、色とりどりの光が通りを彩る。ケンタは夢中で手を振り、歓声を上げた。いつの間にか父の手がまたケンタの手に重なっていた。それは少し硬くて、不器用で、けれど確かに温かい手だった。幼い頃、迷子になりかけたときも、この手が優しく引っ張ってくれた。転んで泣いたときも、この手が傷口を消毒してくれた。ケンタは父の手を見つめ、改めて実感する。父はいつだって、自分のことを考えてくれていた。
夜、花火が空を彩る頃には、ケンタの胸にはある変化が起きていた。もともと、今日は「お父さんが行きたがっているし、しかたなく」と思っていた。でも今は違う。父が自分のために怖い乗り物に乗ってくれたこと、ポップコーンを分けてくれたこと、そして無言で手を握ってくれたこと。その全てが、ケンタにはかけがえのない思い出になり始めていた。
帰り道、ゲートを後にするとき、ケンタはもう一度父の手を握る。そして真面目な顔で言った。「今日は楽しかった。ありがとう。」驚いた父は少し目を丸くした後、はにかむように笑う。「それは良かった。俺も楽しかったよ。」
光あふれる夢の国から出ても、その余韻はケンタと父の心に確かに残っていた。ケンタは思う。父は不器用だけど、一生懸命に愛を注いでくれている。帰りの電車の中、疲れた父はうたた寝をはじめる。その寝顔を見て、ケンタはそっと心の中でつぶやく。「父さん、これからもよろしくね。」
そんな思いとともに、ケンタは窓の外に消えていくディズニーランドの灯りを見つめた。世界中がキラキラ輝くわけではないけれど、家族を思う気持ちはいつだって温かく光る。大事な人を大事にしよう。その小さな決意が、ケンタの胸にしっかりと根をおろしていた。